Ambivalent Wanderer

脳科学(認知科学)、ロボット、現代美術。興味があること、考えたことについて細々と書いています。

「選択」の自由と場所―地方・都会の格差―

こんにちは、Mikenerianです。


今回は最近バズっているこの記事について。

gendai.ismedia.jp


かくいう私も地方出身のため、初見の感想は「もやもやした思いが上手く言語化された」です。


ただ同時に自分の中の「もやもや」の中には消化不良を起こした部分もあり、完全消化すべく記事にしてみようかと思います。




この記事を納得するにあたり、キーワードは「選択」でした。

かの有名なシェイクスピアは、言いました。

Life is series of choices

選択を巡る問題は最近ホットですね。福利厚生をとるか金を取るかなど…




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インターネットも結局「閉じたコミュニティ」でしかない。

まずは軽微な問題から。

「インターネットの使い方もろくに知らない人が多い」と冒頭で挙げた記事にはありましたが、
最近の高校生に関して言えば知らない者はいないでしょう。

おじさまおばさまには想像もできない使い方をしてきます。

ときにはエンジニアのお父さんすら驚愕しちゃいます。
nlab.itmedia.co.jp


上の記事によれば、動画見たり仲間同士で相談したりして勉強してるそう。

たぶん昔このやり方してたらもっとはかどっただろうなあ。。(主に無駄話が)


ただ、地方と都会では厳然たる格差があるのも事実。

特に、SNSは特定の仲間としかつながれないため、結局「閉じたコミュニティ」でしかない。


ローカルの高校生友達同士のコミュニティでは、キラキラした大学生や一流企業の情報はあまり入ってこないでしょう。



地方出身でも、都会に出れば差はなくなる(地方に戻るとは言っていない)

結局地方格差が生じる根本原因は、優秀な人間ほど地方に戻ってこなくなることが大きいのではないでしょうか。

一流大学へ進学するにあたり都会に出た大学生は、その格差に最初は驚きます。


それこそスクランブル交差点を見ては一々はしゃぎ、
ただのカフェに入ってはテンションが上がって写真を撮りまくり、
新宿や渋谷へ行くたびに迷子になります。


しかしそんなおのぼりさん気分もゴールデンウィークまでで、
徐々に都会に染まっていき、区別がつかなくなってきます。

春学期、初々しい大学1年生は簡単に見分けられたはずなのに、2年生になるとオサレになったせいか全く区別か無くなる現象が起きるのです。


問題は、そこに至るプロセスの差ではないでしょうか。以下の図を見てください。


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図ではざっくり左が「田舎」、右が「都会」に分かれています。

もちろん実際はこんな単純な図式では表せないことだらけですが、あえて簡略化して表すとこんな感じです。

図において●は各々が進む学校を示しています。


ぱっと見て明瞭ですが、田舎では小学校、中学校で人間関係にほとんど変化がありません。

せいぜい隣の小学校とくっつくくらいです。

高校ではじめて階層ができ、その階層で上の人々が大学進学を経験し、
都会に行く人々が、都会に染まり順応していくのです。

そういった人々はいわゆる地元進学校に通っていた場合が多く、「優秀な」生徒であったはずです。

そういう人達ほど都会に進学・就職し、地元に戻ることがないわけですから、地方格差が生じるのは必然的です。


それに対し都会では、小学校、さらには幼稚園から差がつきます。

そしてそのまま階層が固定された状態で、大学まで行くわけです。


余談ですが、上の人間は下の人間のことを、下の人間は上の人間のことをしらないまま成長することも少なくないのではないでしょうか。

そういう、別の階層の人間のことを知る時間を「無駄」といい、同じ階層の人々と接する時間を「有益」とする価値観が見え隠れします。




さてさて、田舎出身の、大学で初めて会う都会の人々はそもそも上層でずっと過ごしてきた人がほとんどです。

そこで感じる差とは、そもそも「地方」と「都会の上層」との格差ではないでしょうか。


しかしそれは格差というよりは、文化差に近いものだと私は考えています。

図でいえば、赤丸(かなり恣意的)の人々です。

どちらかといえば進学校で、様々な資源に恵まれていると思います。


南北問題を語れば南南問題があるように、都会にも格差があるのです。

ただそこを論じるのは冒頭ブログの趣旨とは異なりますし、その原因を考察すれば10000字は必死のため、割愛します。




まとめると、地方出身でも都会出身でも、上に行くことはできるというのがここでの主張です。



つまり、地方と都会で「経験」に違いはあっても、結果は変わらない。

学力順に並べると、地方出身と都会出身で年収に差はそこまでないのではないかと思ってしまいます。
(もちろん物価は異なるのでそこは補正した上で)


気づいたら、冒頭で挙げたブログと真逆のことを言っている気がします…


じゃあ、幸福度は?満足度は?それこそが問題ではないでしょうか。




ライフスタイル、あるいは文化の差異


冒頭のブログでは、地方と都会の差として、「想像力」の差を挙げていました。


しかし前章で紹介したように、都会出身は都会出身で、小学校から階層が分かれています。

これではどっちのほうが「想像力」を欠如しているか、一概に測ることができない。

それが私の見解です。


また、当たり前ですが子どもは親を選べず、生まれる場所も選べません。


必要なのは、どの子どもにも自分が納得できる選択肢を選べる環境を用意することだと思います。




そのために都会に必要なこともあれば、

地方に必要なこともあるのだと思います。




例えば、中学校から大学受験を意識して、勉強し続けることは本当に良いことでしょうか。


地方では高校3年の夏まで部活をした上で東大へ進学するようなエリートもいます。

果たしてどちらのほうが、豊かな経験を重ねたといえるでしょうか。


もちろんそんなことは限られた人間にしかできないと思います。

しかし、「限られた人間」が毎年輩出される地方の高校があることも事実です。



選択肢が多ければ満足か

都会と地方で結果に差はないとか、さらには地方の方が豊かな経験をすることができるみたいなことを書いてきました。


とはいっても、都会に対し憧れはたくさんありました。

だって秋葉原に行けばアニメグッズは買えるし、
パソコンだって自作し放題だし、
ライブやコンサートだってたくさんあるし。


主に秋葉原への憧れでしたが、
地方では大きなショッピングモールしか買い物先が無く、
休日は動画サイトでネットサーフィンするくらいしかできず、
東京へ行けるというだけで数週間はワクワクしてました。


しかし最近はネットショッピングも普及し、北海道新幹線北陸新幹線が開通し、
物理的格差もかなり縮まっているのではないでしょうか。




じゃあ、地方も都会も選択肢をたくさん与えれば豊かになりうるのか。


事はそう単純ではありません。



自由を手に入れるとその代償として様々なものを失うというのはアニメでよくある展開ですが、実際にそのようです。


「選択の科学」で有名なSheena Iyengarによると、選択肢が多すぎる場合、幸福度は下がるそうです。


www.ted.com


ということは、地方でも都会のように階層をもうけるのが良いのか?
都会でも地方のように限られた選択しかできない状況を維持するのがよいのか?
それとも…?


話がまとまらず結論も出ていませんが、ここまでで記事を終えたいと思います。