Ambivalent Wanderer

脳科学(認知科学)、ロボット、現代美術。興味があること、考えたことについて細々と書いています。

レッテルを貼られるのも良いんじゃないかって思った話

こんにちは、Mikenerianデス。


突然ですが、私、嫌いな質問があるんです。


あなたは文系ですか?それとも理系なんですか?




本当は正直に「どっちでもないです」とか「文理です」と言いたいところですが、そうすると背景を説明するのが面倒くさい。

「えっと、認知科学という学問はそもそも認知心理学っていう心理系なんですけど、人工知能みたいに人間に似た知能を作る思想が根本にあって…」
とか長々説明しても結局良くわからないってなるし、あっ、こいつ面倒くさいやつだ…とキモオタとして遠巻きに見つめられることになるし。


結局妥協して、「理系っぽくない理系です」とか、「高校までは理系でしたよ」っていう説明に落ち着くわけです。


そのように答えることに正直抵抗があったんですが、最近それでいいんじゃないかと思えたという話です。


一応、過去に書いた「立ち現れてくる存在」の延長軸にある話かと。
mikenerian.hatenablog.com





いきなり壮大な話になりますが、人間は常に何かしらのレッテルを貼られています。
名前、企業、役職…

それだけだったらいいですが、
キモオタ、キョロ充、非リア、非モテ、ヒゲ
なんかだと傷つきます。

あと、LGBTとか障碍者に代表されるように、レッテルが差別意識につながることは常々問題になっています。

こういうレッテルはコミュニケーションを取る上で欠かせないので、無くなることはないでしょう。


そこでマイナスなイメージを払拭する究極ソリューションとして、ネガティブワードを全てポジティブに変換できたとします。



ところが全部ポジティブなレッテルにすると、結局わけがわからなくなり、そこで格差が生じます。

例えば「特殊」は英語にすると「Special」なので何か特別感が生まれますが、じゃあ偏った人間はみんな「Special」でまとめるとその中でも良い「Special」と悪い「Special」に分離してしまったり、分離しないのならしないでカオスになり誰を指しているのかわからなくなったりという問題が発生します。

そのような中で「多様性」という言葉は表面上中立を保っており、現代社会では均衡を表す代名詞的存在として代表しています。


話が少しそれましたが、何かしらのレッテルは誰にでもついてまわるものであり、それにはネガティブ・ポジティブ両方が含まれることで、謎な存在である「自己」あるいは「他者」を定義づけます。




そこで「文系」、「理系」というレッテル(カテゴライズ)の話に戻りますが、そもそも「文理」というレッテルはどうして認められない、あるいは抵抗があるのでしょうか。


それは大学進学、就職といった人生の大きな「節目」で大きな役割を果たしているからであり、その分類が「手っ取り早く」見極める手段として浸透していることにあります。

さらに言えば、多様化する学問の現状を充分に理解していない、伝統的制度に縛られた人間がそのカテゴリを「許容」していない現状があるからでしょう。


かくいう私もそのような現状があり、この質問を嫌っているきらいがあります。。


しかしその現状もかなり変わってきているように思います。「人間科学」や「学際情報」といった学部があり、そこから輩出される神様のような先人方が認められつつあるためです。


しかし、「文理」というレッテルが認められると、別の問題が発生します。


先ほど少し触れたように、じゃああなたは「文理」の何者か?ということがわからないためです。
バイオテクノロジー×芸術
社会学×人工知能
心理学×物理学

思いつくだけでも、「文理」にこれだけのバリエーションがあります。


というわけで従来と同じ情報量しか伝達できないような場面(具体的にはパーティーとか)では、そこまでの説明が不十分なまま終わることが多いと思います。


だから、詳しく説明しなくても、「一応理系」ということでスタートしてみる。

そこで意外と話が広がって、相手と意気投合することもひょっとしたらあるかもしれない。


そういうつながりを感じることができたので、まあ、仮にでもレッテルを貼られることが、そんなに悪いことでもないんじゃないか。
大事なのはその後の発展なんじゃないか。


ということを再確認できたというだけのお話でした。


ちなみに文理融合っていうとどっちもできるってイメージがあるかもしれませんが、実際のところは中途半端、どっちもできないということもよくあるので、
まがりなりにも「文理」を標榜するからには生半可ではいけないと感じました。