「成長」というまやかしについて
こんにちは、Mikenerianです。。
少し更新に間があいてしまいました…(決してフェードアウトしようとしていたわけではない)
さて今回は少しキレッキレな記事ですがご容赦を。
ポ○テピ●ックブームだから許して…
さて、今回のテーマは「成長」です。
ここでいう成長は、身長が伸びるというような身体的成長のことではなく、精神的成長、あるいはこころの成長についてです。
なおかつ、赤ちゃんが言葉を覚えるとか、部下が仕事を覚えるようになったというような、他者に向けられた評価ではなく、自己評価として「成長」という言葉を向けた場合について述べます。
ヘ(^o^)ヘ いいぜ
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/ /
(^o^)/ てめえが何でも
/( ) 思い通りに出来るってなら
(^o^) 三 / / >
\ (\\ 三
(/o^) < \ 三
( /
/ く まずはそのふざけた
幻想をぶち殺す
「成長」=ポジティブというイメージの誤り
その幻想をぶち壊す!
とは、とある主人公が言った決め台詞ですが、まさに「成長」とはまやかしだというのがここから先の主張です。
特に自己評価の場合。
なぜなら、成長とは何かができるようになったり、知らないことを知ったり、分からなかった理を理解することによって得られるものではないからです。
今まで知らなかったことを知って。
それを実際にやってみて。
それがわかるようになって。
さらにそれができるようになって。
その道を究めること。
それは確かに、周りから見れば成長です。
なぜならその人は実際に役に立ったり、
使えるようになったり、
最低限以前よりはましな人間になるからです。
つまり「成長」という概念には、評価がつきまといます。
ところが、自分自身に関してこの言葉を使うことは、諸刃の剣です。
自分自身に対して「成長」という評価をつけること。
それは自身の欠点を欠点とみなし、長所を長所とみなし、過去の自分と比較して変化した部分を判断して下す価値です。
逆に言えば、自分の何かを変えてそのことを評価してはじめて、「成長」というレッテルを貼ることができます。
自分のための成長
さて、ここで問題なのは、
そのレッテルが、何のために必要なのかということです。
もし純粋に自分の能力を高めたり知識を深めたいのであれば、
現在の長所と短所を評価し、足りないところを自覚して必要な努力を計画すればいい。
すなわち本当に自身が成長するために、「成長」を判断して自己を評価することは、不必要なのです。
自身を成長したと実感することは、
単なる自己満足であり、
すなわち他人の評価とは隔絶された指標に過ぎず、
そのようなことで自身が成長したと満足することは、慢心や奢り昂りを生み出しさえします。
成長に対義語はない
ところで、成長の対義語は何でしょう。
退化かと思っいましたが、成長は進化ほど強い言葉ではありません。というか種をまたぎません。
むしろ個人の問題というなんとも矮小な問題です。
調べてみると、どうやらそもそも若返る生物がないのと同様、成長の対義語もないようです。
であれば、退化しても問題はない!
という免罪符すら成長には存在してしまっています。
予想はつくと思いますが、こんな記事を書いたのは…(まとめ)
ここまで徹底的に「成長」という言葉を批判してきたのは、別に成長したくない(働きたくない)からではありません(笑)
巷でよく目にする「圧倒的成長!」などという言葉を掲げる奴らに嫌気が差したというのが正直なところです。
「成長」とはそもそも自分自身に対して使うべき言葉ではないと、ここまで読んできた皆様にはおわかり頂けたかと思います。
そんな言葉であたかもポジティブなイメージを押し付け、
さらにそれをさも当然であるかのように押し付けてくる風潮にささやかながら抵抗しました。
成功の対義語が成長なわけがない。それは単なる失敗の誤魔化しに過ぎない。
圧倒的成長、
圧倒的感謝、
圧倒的環境、
圧倒的能力。
そんなものはない。
圧倒的業務量を前に、
みなし残業で、
罵詈雑言で、
デスマーチで死ぬだけだ。
別に彼らが悪いわけじゃない。それに乗せられている人間も悪いわけじゃない。そうだ、社会が悪い。(ゆとり、さとり世代の弊害)
という茶番はこのぐらいにして、本当に、自分の能力は正しく評価して、良い環境で成長したい。そう思う今日このごろでした。
まあ、たまには自分に優しくしたいですね。(いつもしている)
ひどいまとめですが、基本的に人間て自分に甘いし、甘々だし、
稲妻を食らわすくらいがちょうどいいんじゃないかと思います。